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せきど観音 観音寺は 東京都多摩市にある真言宗豊山派のお寺です                   せ き ど 観 音     なで観音のお寺

    

〒206-0011 東京都多摩市関戸5-31-11

歴 史

歴史


せきど観音 慈眼山唐仏院観音寺の創建は、建久三年(1192年)後鳥羽天皇の御代、唐僧が聖観世音菩薩を草庵に安置したのがはじまり。古くは『関戸観音堂』と云われ観音さまのお寺として信仰を集め、武相観音霊場第7番・多摩川観音霊場第12番・多摩八十八ヶ所霊場第16番・多摩十三仏霊場第5番・京王観音霊場第23番の各霊場の札所となる。

寺の近くを通る旧鎌倉街道沿いは「関戸古戦場跡」と云われる。分倍河原の合戦に敗れ、鎌倉街道を敗走する幕府北条軍を討幕新田軍が追撃し、幕府方の横溝八郎や阿保入道父子らの忠臣が、関戸の地に踏みとどまって防衛したものの、敗北をきっする。(元弘三年・1333年5月16日)北条軍敗北の地、関戸の戦跡に近いこともあり、観音寺では、関戸合戦有縁無縁精霊・阿保入道父子精霊・横溝八郎朝臣精霊の位牌を、大切にお祀りしている。



高幡不動尊胎内文書

日野の高幡不動尊金剛寺の本尊、不動明王の胎内に保管されていた手紙(高幡不動胎内文書)によると、暦応二年(1339年)、山内経之が常陸合戦への出陣に際して兵糧米の融通を、観音寺の僧に依頼したとある。

歴史を伝える石仏

相沢五流・伴主親子の墓
  相沢家一族の墓(了栄・五流・伴主・忠主ら) 


相沢五流(1746〜1822)

関戸村の名主。京都にあった時、御室仁和寺(真言宗御室派総本山)の法親王に謁し、三多摩地区で初めて「法眼号」を授けられた。狩野派系の画師。江戸後期の文化人であった。三男邨教(むらのり)は、華嶽(かがく)と号し、御室仁和寺のお抱え絵師となる。


相沢伴主(1766〜1849)

五流の長男。関戸村の名主。いけばなの流派「允中流」を創始。また、「調布玉川惣画図」(1845・多摩市指定有形文化財)を制作。


「調布玉川惣画図」

多摩川の水源から河口(羽田付近)までの風物を描いた巻子仕立ての地誌。全長13m。相沢伴主の序文によれば、天保10年(1839)に小河内郷を訪れ、水源探索を決意した伴主が上流から下流までの写生をおこない、それを長谷川雪堤が浄写したという。その原型には、文化6年(1809)、多摩川の堤防検分に来た大田南畝(蜀山人)が、相沢五流に依頼して描かれた「玉川勝蹟図」の下絵があることが推測されている。「調布玉川惣画図」では、関戸を中心に富士山が配され、天守台や横溝八郎の墓なども取り上げられている。当時の相沢伴主の歴史観や、関戸の位置づけを見て取ることができる。刊行にあたっては、天保14、15年(1843-44)に資金調達のため無尽が行なわれるなど、周囲の協力があったようである。(『特別展関戸合戦』より抜粋・パルテノン多摩発行)


 ※けやき出版にて「調布玉川惣画図」本『多摩川絵図』が出版。

  



○観音寺板碑群  嘉元三年(1305〜)。
         阿弥陀さま等の梵字が彫られた板碑。
         
(※現在、多摩市教育委員会にて保管。)

○大 日 如 来    元禄五年(1692)。

○石経書寫塔   明和元年(1764)。
         相沢家・藤井家らによって建立。

○三界萬霊等   安永二年(1773)。
         般若石経。相沢了栄によって建立。
          
○六 観 音   天明元年(1781)。
         江戸時代の六観音。
         相沢五流の父・了栄らによって奉納。

○地 蔵 菩 薩   天明五年(1785)。
         観音寺本堂前に安置。
         相沢五流の父・了栄によって奉納。



せきど観音 観音寺

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